2015年9月17日木曜日

戦後70年をおもう


当たり前ですが、20年前は戦後50年でした。
当時私は朝日新聞社で契約社員として勤務していて、記者さんに
父方の母(私の祖母)の話をしたことから、戦後史記事として
扱ってもらえることになった、という話を書きたいと思います。

《できればその時の記事を載せたかったのですが、実家で保管して
 いるため準備できませんでした。すいません。。》

             *

前置きが少し長くなりますが、枕崎市で暮らしていた祖母は
22年前、交通事故で他界しました。97歳でした。
学校の先生をしていた祖母はとても頭が良くて、身体は小さい
けれどシュッとしていて、矍鑠(かくしゃく)を絵に描いたような
人でした。
私にとって憧れの存在でしたが、その人生はまさに波乱万丈。
7人の子供に恵まれるも上の息子2人を戦争で亡くし、のちに
2人の息子にも病気で先立たれています。
私の父は末っ子で、一番上の兄とは20歳も離れていたそうです。
(だから祖母なのにこういう年齢なのです)

             *

さて本題に戻ります。
祖母が亡くなった時、ある一冊の手帳を私の母が見つけました。
それは戦時中に祖母が兵隊だった知人から「必ず取りに来るから」
と預かったもので、家族への思いがびっしりと綴られていました。
これはどうにか届けなくてはと思うものの、個人では探し当てられる
はずもなく、記者さんに相談すればどうにかなるのではと考えて
話したことがきっかけでした。
さすがです。あっという間に見つかり、取材ついでに届けていただく
ことができました。その方の息子さんご夫婦は大変喜ばれ、東京から
知覧までお礼を伝えるためにわざわざ足を運んでくださって、その後
私の両親としばらく交流が続いたという結末です。

             *

戦争がどんなに残酷なものかは誰でも知っているはずです。でも、
当時のことを克明に語れる人がどんどん少なくなっているのが現実。
70年前の痛みが薄れて、記憶が風化してしまうのは本当に恐ろしい
ことです。だから私達は知る限りのことを次の世代に語り継いでいく
義務があると思っています。
そんなことを考えた時、ひとつ後悔しました。
祖父母からもっとちゃんと戦争の話を聞いておけば良かったと。
しばらく一緒に暮らした母方の祖父は、そういえば、一時期毎朝の
ように沖縄戦の写真集を眺めていました。
4人の祖父母の中で一番最後まで元気だったその祖父ももういません。

             *

私の両親は、結婚当時鹿児島市内に住んでいたものの、仕事の関係で
何のゆかりもなかった知覧に居を構えることになりました。
それも何かのお導きだったのかもしれないと今になって思います。
今安保法案が世の中を騒がせていますが、何より尊い人間の命を奪う
戦争に絶対に正義などありません。
私にできることは本当にちっぽけですが、決して平和ボケすることなく
当たり前のように訪れる明日を大切に生きていこうと思います。
この仕事に引き合わせてくれた先祖、今の自分を育ててくださっている
全ての方々に感謝して…

                           Shinohara


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